昔、子どものいわゆる「試し行動」にひどく手を焼いた時期がある。
施設の損壊や暴言、暴力など、まるで僕との信頼関係を試すかのようにわざと困らせる行動が続き、対応策を求めて書籍やネットを必死で漁った。
そこで最も多く推奨されていたのは、「子どもの試し行動には、徹底した無視(スルー)を貫き、望ましい行動をとった時だけ褒める」という手法だった。間違った成功体験を積ませないためであり、これ自体は理にかなっているし、確かに一定の効果もある。僕自身も数々のテクニックの積み重ねで現場を乗り切ってきた人間なので、この手法そのものを否定したいわけではない。
しかし、子どもに対して誠実である事に拘る自分としては、このマニュアル的な対応を全てのケースにそのまま当てはめることに、どうにも拭えない不安があった。
それは僕が愛情至上主義だからではない。「何故それをやるのか?」という本質を理解せず、ただ上澄みのテクニックだけをなぞることは、非常に危ういと感じるからだ。
「褒める」ことの危うさと、封じ込められるSOS
何より、「これは試し行動だ」とレッテルを貼ってしまう事で、大人が無言のうちに「君は人を試して困らせる厄介な存在だ」という眼差しを子どもに向け、その言動を軽んじてしまう気がした。
アメとムチのようなコントロールを続ければ、結果として子どもの信頼感も自己肯定感も削いでしまうのではないか。大人が「対策の枠組み」にばかり気を取られ、過激な言動の奥にある「苦しい」「助けて」という本当のSOSを見落としてしまうことが一番恐ろしい。
とりわけ、「都合の良い時だけ褒めちぎる」という行為には注意が必要だと思っている。
僕自身の子どもの頃の記憶に、こんなものがある。 反抗期の序盤、僕は父親を試すために、あえて「あなたに逆らわない、従順な態度」を見せたことがあった。すると父は、「最近のお前は本当に良い子だ」としみじみ僕を褒めたのだ。
その瞬間、僕は深く失望し、その時の不信感は今も心に焼き付いている。 僕の本当のニーズは「反抗ごと受け止めてほしい」だったのに、それはすり抜けられ、結果として本心を押し殺したまま「従順な子ども」を演じ続けることになってしまった。当時の親父の不安や困惑は今なら理解できるが、表面的な「良い行動」だけを掬い取って褒めることは、時として子どものSOSを完全に封じ込めてしまう。
ムツゴロウさんと「首を噛まれる距離感」
一方の「徹底した無視(スルー)」についても、思うところがある。 以前、ある方から「ムツゴロウさんはトラに首を噛まれても決して大騒ぎしなかった」というエピソードを教えてもらった。
この話で僕が深く感じ入ったのは、「無反応を貫いたこと」以上に、ムツゴロウさんがそもそもトラを「自分の首を噛める至近距離」から決して遠ざけなかったというその態度だ。
あえて無反応を貫くという手法は、「首を噛まれる距離感」という関係性の土台があって初めて効いてくる。
試し行動の対応スキームを学ぶのと同じくらい、あるいはそれ以上に大事なのは、子どもを「自分の首を噛める距離」に招き入れること。そして、その距離感に大人が招いてもらうことなのだと思う。表面だけをなぞって、安全圏から急に「ガン無視」を決め込むのは、苛烈な試し行動をとる子どもに対してはあまりに極端で、冷酷ですらある。
解決しないまま「抱え続ける」という高度な技術
子どもが全力で大人を困らせようとしている時、一刻も早くその事態を収拾し、速攻で手放したいと思うのは大人の本音としてもっともだ。
しかし、あえて「困り続ける」「ハラハラし続ける」ことにも、大人が担うべき重要な役割がある気がしてならない。
すぐに解決できない問題や不確実さに耐え続ける力を「ネガティブ・ケイパビリティ」と呼び、子どもの不安や葛藤を大人が代わりに受け止めて抱え続けることを「ホールディング」と呼ぶらしい。
解決策を念頭に置きつつも、小手先でコントロールしようとするのではなく、子どもの葛藤を共に抱え続ける。子どもが「どれだけ困らせても、この人は見捨てない」と心の底から実感するまで、その場に留まり続けること。それもまた、一つの非常に高度な「技術」なのだ。
近年、周りから「さすが、愛情深いですね」と言われることが増えた。 けれど、僕自身にはそんなつもりは全くないし、元々無条件の愛に包まれた環境で育ったわけでもない。
ただ、先人たちの様々なテクニックの意図を自問して血肉化しつつ、時には自分も傷つくかもしれない「首を噛まれる至近距離」に留まろうと腹を括る(もちろん、時には戦略的撤退もする)。
その意識と試行錯誤の泥臭い積み重ねこそが、後になって他者の目から見た時に「愛情」などと呼ばれるものに変わっていくのかもしれないなあと、今はそんな風に思っている。