本当は、全部遊びで良い

地域に子どもの遊び場を作るプレーリーダーという仕事をしています。

【怒りを「遊び」に変える。ゴリラ流・争い回避術】

子どもたちの全力の遊びには、時に激しい衝突が伴う。 手が出てしまったり、耳を塞ぎたくなるような暴言が飛び交ったりしたとき、そこに立ち会った大人はどう対応すべきか?

かつての僕は、裁判官のように間に入り「どっちが悪い?」「ほら、謝って」とジャッジして、無理やり謝罪させていた。10年前まではそれが正しいと信じていた。

でも今は、その手段をほとんど取らない。

なぜなら、大人の権力でねじ伏せるのは、子どものあらゆる可能性を放棄せざるを得ない時の「最後の手札」だからだ。

では、行き場のない情動や心の傷つきをどうするか。 基本のスタンスは一つ。 「暴力以外の別の表現(遊び)へと変換する」ことだ。

遊びの中で感情を豊かに「言語化」するのはもちろん、言葉にするのが難しいならチャンバラや泥合戦といった「身体表現」へ転換したり、アクションペインティングで思い切り絵の具をぶちまけたり、一緒に意味不明な歌や踊りに全力で興じたこともある。

「暴力以外の手段(遊び)で行こうぜ」

実はこのやり方、霊長類学者の山極壽一さんが語る『ゴリラの生態』にとてもよく似ている。

強大な力を持つゴリラは、驚くほど争いを避ける生き物だ。 彼らは衝突を回避するために、自らの胸を叩く「ドラミング」を行う。

しかしその音は、ポコポコと拍子抜けするほど軽快で、なんだか間抜けなリズムなのだ。

人間であれば「ダサw」と煽ってさらにややこしくなりそうだが、ゴリラたちはその間抜けな響きによって見事に争いを回避してゆく。

これって凄いスキルだと思う。

人間の内なる暴力性を否定するつもりはない。 ただ、「どうせ力で管理するしかない」と諦めたくもないし、子どもたちに「所詮、力が全てだ」なんて成功体験を積んで欲しくもない。

怒りも悲しみも、「遊び」というフィルターを通せば、別の表現に変換できる。

ゴリラが間抜けなリズムで森の争いを平和に収めるように。

人間が持つ「ユーモア」や「遊び心」もまた、行き場のない情動を反転させ、日常の風景を変えていける力を持っていると思う。

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子どもの「試し行動」と、首を噛まれる距離感。〜マニュアル対応の奥にあるもの〜

昔、子どものいわゆる「試し行動」にひどく手を焼いた時期がある。

施設の損壊や暴言、暴力など、まるで僕との信頼関係を試すかのようにわざと困らせる行動が続き、対応策を求めて書籍やネットを必死で漁った。

そこで最も多く推奨されていたのは、「子どもの試し行動には、徹底した無視(スルー)を貫き、望ましい行動をとった時だけ褒める」という手法だった。間違った成功体験を積ませないためであり、これ自体は理にかなっているし、確かに一定の効果もある。僕自身も数々のテクニックの積み重ねで現場を乗り切ってきた人間なので、この手法そのものを否定したいわけではない。

しかし、子どもに対して誠実である事に拘る自分としては、このマニュアル的な対応を全てのケースにそのまま当てはめることに、どうにも拭えない不安があった。

それは僕が愛情至上主義だからではない。「何故それをやるのか?」という本質を理解せず、ただ上澄みのテクニックだけをなぞることは、非常に危ういと感じるからだ。

「褒める」ことの危うさと、封じ込められるSOS

何より、「これは試し行動だ」とレッテルを貼ってしまう事で、大人が無言のうちに「君は人を試して困らせる厄介な存在だ」という眼差しを子どもに向け、その言動を軽んじてしまう気がした。

アメとムチのようなコントロールを続ければ、結果として子どもの信頼感も自己肯定感も削いでしまうのではないか。大人が「対策の枠組み」にばかり気を取られ、過激な言動の奥にある「苦しい」「助けて」という本当のSOSを見落としてしまうことが一番恐ろしい。

とりわけ、「都合の良い時だけ褒めちぎる」という行為には注意が必要だと思っている。

僕自身の子どもの頃の記憶に、こんなものがある。 反抗期の序盤、僕は父親を試すために、あえて「あなたに逆らわない、従順な態度」を見せたことがあった。すると父は、「最近のお前は本当に良い子だ」としみじみ僕を褒めたのだ。

その瞬間、僕は深く失望し、その時の不信感は今も心に焼き付いている。 僕の本当のニーズは「反抗ごと受け止めてほしい」だったのに、それはすり抜けられ、結果として本心を押し殺したまま「従順な子ども」を演じ続けることになってしまった。当時の親父の不安や困惑は今なら理解できるが、表面的な「良い行動」だけを掬い取って褒めることは、時として子どものSOSを完全に封じ込めてしまう。

ムツゴロウさんと「首を噛まれる距離感」

一方の「徹底した無視(スルー)」についても、思うところがある。 以前、ある方から「ムツゴロウさんはトラに首を噛まれても決して大騒ぎしなかった」というエピソードを教えてもらった。

この話で僕が深く感じ入ったのは、「無反応を貫いたこと」以上に、ムツゴロウさんがそもそもトラを「自分の首を噛める至近距離」から決して遠ざけなかったというその態度だ。

あえて無反応を貫くという手法は、「首を噛まれる距離感」という関係性の土台があって初めて効いてくる。

試し行動の対応スキームを学ぶのと同じくらい、あるいはそれ以上に大事なのは、子どもを「自分の首を噛める距離」に招き入れること。そして、その距離感に大人が招いてもらうことなのだと思う。表面だけをなぞって、安全圏から急に「ガン無視」を決め込むのは、苛烈な試し行動をとる子どもに対してはあまりに極端で、冷酷ですらある。

解決しないまま「抱え続ける」という高度な技術

子どもが全力で大人を困らせようとしている時、一刻も早くその事態を収拾し、速攻で手放したいと思うのは大人の本音としてもっともだ。

しかし、あえて「困り続ける」「ハラハラし続ける」ことにも、大人が担うべき重要な役割がある気がしてならない。

すぐに解決できない問題や不確実さに耐え続ける力を「ネガティブ・ケイパビリティ」と呼び、子どもの不安や葛藤を大人が代わりに受け止めて抱え続けることを「ホールディング」と呼ぶらしい。

解決策を念頭に置きつつも、小手先でコントロールしようとするのではなく、子どもの葛藤を共に抱え続ける。子どもが「どれだけ困らせても、この人は見捨てない」と心の底から実感するまで、その場に留まり続けること。それもまた、一つの非常に高度な「技術」なのだ。

近年、周りから「さすが、愛情深いですね」と言われることが増えた。 けれど、僕自身にはそんなつもりは全くないし、元々無条件の愛に包まれた環境で育ったわけでもない。

ただ、先人たちの様々なテクニックの意図を自問して血肉化しつつ、時には自分も傷つくかもしれない「首を噛まれる至近距離」に留まろうと腹を括る(もちろん、時には戦略的撤退もする)。

その意識と試行錯誤の泥臭い積み重ねこそが、後になって他者の目から見た時に「愛情」などと呼ばれるものに変わっていくのかもしれないなあと、今はそんな風に思っている。

【子どもから光を奪う、大人の”正したい反射"】

「危ないぞ」、「怖いなあ」、「それは、やめてよ」、そんな言葉で、子どもの遊びを反射的に止めてしまう事が、僕にも未だにある。

もちろん、主に「危ない」と思っているから止めるのだが、一方で、脊髄反射的に出てしまうこの態度を「正したい反射」と呼んで気をつけている。

そして、これをやってしまった日は丁寧に振り返り、自分に問いかける。
「なぜ僕は、あの遊びを止めたかったのか?」

「怪我やトラブルが心配で止めた」のであれば、その怪我はどのくらいの発生率で、どの程度の被害規模を想定していたのか。それをちゃんと言語化できるか。

もしかしたら、「なんとなく怖いから」という理由にすぎなかったのではないか。

これを 「直感」と言ってしまえば聞こえは良いが、根拠の曖昧な直感を振りかざすばかりが、遊びの専門職の職能だとは到底思えない。

僕は「うまく説明できないけれど、なんとなく危ない気がする」という直感は、日々の実践の積み重ねの果てにある、“最後の手札”として持っておきたい。

つまり、反射的に子どもの遊びを止めるのは、できる限り、「やむを得ない時」にしたい。

なぜなら、大人がその遊びを止めてしまうことで、子どもから奪うものは、少なくないと考えるからだ。

遊びを止める事で奪うものは、単なる「成功体験」とか「失敗体験」にとどまらない。

「この大人は無闇に奪いにこない」という心底の“信頼感”。
「この世界はやっぱり面白いんだ!」という“好奇心”や、「自分は道を切り開いていけるんだ」という"希望"。

それを子どもから奪い続けた先にあるものは何か?を時折考えてみる。

子どもの目から光が失われ、僕らは信頼を失い、遊び場は管理された「遊ばせ場」に成り下がり、遊びは本来の価値をどんどん失っていく。

もちろん、命や尊厳を守るために、遊びを止めなければならない瞬間は必ずある。常に警戒すべきだ。
しかし、自分の経験不足ゆえに見通しが立たず、反射的に止めてしまう事態も沢山ある。

だからこそ、僕は毎度立ち止まって考察する。
「それは、どのように、具体的にどの程度危なかったのか?」
「本当に、止める以外の選択肢はなかったのか?」

もし「自分がやったことがないから、よく分からずに怖くなっただけ」ならば、まずは自分もやってみる、というのが一つの手だ。

そういう地道な積み重ねの果てにこそ、本当に信頼に足る、自分自身の直感が培われていくと思う。

"自由"と"勝手"の境界線

「自由だからって、なんでもしていいわけじゃないぞ!」

遊び場にいてこんな声を耳にした事が数度ある。

冒険遊び場が自由な遊び場とはいえ、あまりに自分勝手に振る舞う子どもに痺れを切らした親の声だった。

確かに、どこまでが「自由」で、どこからが「勝手」なのか、少し曖昧な自分に気づく。

そこで改めて考える。

「自分勝手」ってなんだろう。他者の存在や社会のルールを一切省みず、自分の欲望だけを優先するという、孤立した考え方や振る舞いの事だと思う。
そこには他者への配慮がなく、ルールを軽んじる身勝手さが伴う。

一方で、僕が肯定したい「自由」とは、なんだろう。完全なる無秩序や「なんでもアリ」とは違う。(ガチガチなルールに縛られた場と比較して、あえてそう表現することはあるが)。

それは他者を尊重し、共通のルールを自ら引き受ける(その上で敢えて破ることもある)という基盤のうえに成り立つポジティブなものだと思う。

冒険遊び場は、これを体現する可能性を秘めた場所だと思っている。

一見すると、ここは「ルールがない自由な場所」と理解されがちだが、実際はその逆と言えるかもしれない。そこには遊びの数だけルールが存在し、子どもたちの遊びの数だけ選択肢がある。

たとえば極端な例だが、僕は場内における暴力を禁じている。しかし、「喧嘩をするか・しないか」を選ぶ自由や、その解決に向けて暴力以外の手段を模索する自由は、しっかりと残されている。

このように、一定の制限や枠組みがあるからこそ、その中で何を選ぶかという自由が際立つように思う。つまり、制限と自由は対立するものではなく、互いを支え合っているのではないか。

したがって、制限を単なる抑圧として否定するのではなく、自由を成立させるための「柔軟なフレーム」として捉え直すことが重要に思う。そして、そのフレーム自体もまた、より豊かな自由を生み出すために、参加者によって自由に考えられ、更新されていくことが望ましい。

子どもは自由な遊びの中で、プレイヤーの技能や条件に応じて、どんどんルールを更新してゆく。先日は異年齢同士の鬼ごっこで、あまりに参加者の能力に差がありすぎたため、「高学年は早歩きのみ」と、おそらく低学年も互角に遊ぶための"縛り"が、子ども達の中で考案されていた。

まとめよう。

自由とは、無制限の放任ではない。
他者と共存するためのルールを引き受けたうえでの、主体的な選択の積み重ねだと思う。

【子どもを「被害者」と「加害者」に分けない】

子どもたちの間に起こるトラブルを、「被害者」と「加害者」という二項対立で分類することの危うさについて考えている。

 


僕たちはつい、「加害者には罰を」「被害者にはケアを」と、事態を単純化して処理しようとしてしまう。

 


そうやって分類すればわかりやすいし、社会の常識としても間違っていないように見えるため、納得した気になれるからだ。

 


しかし、それは「思考停止」でもある。少し引いて全体を見渡せば、加害に及んでしまった子ども自身が、実は「見えざる被害者」であることは決して珍しくない。

 


そもそも、加害・被害の立場は固定されたものではなく、状況次第でいつでも入れ替わり得るものだ。「お前が加害者だ」と決めつけられた子どもが、「だってあいつが先に手を出してきたんだ」と訴えることがある。本来なら「やられたらやり返せ」と煽るような社会に生きているにもかかわらず、大人の前ではその切実な訴えは通用しない。

 


さっきまでは明らかに被害者だったのに、その事実を誰にも視認してもらえなかったが故に、反撃した途端に加害者に仕立て上げられてしまう。こうした理不尽な「やられ損」が心に積み重なれば、子どもが人間不信に陥るのは必然だろう。

 


だからこそ、子どもという存在そのものを枠にはめ込み、評価すること自体に無理がある。

 


さらに根深いのは、この構図に介入する僕たち大人が無意識に抱く「感情」の問題だ。

加害をした子どもに対して僕たちが抱く怒りは、「その子が加害者だから」という純粋な義憤から湧き上がるとは限らない。むしろ、「加害者は罰せられ、反省しておとなしくしているべきだ」「むかし私も同じような痛い目にあったから」といった、大人自身の過去の経験や凝り固まった価値観の投影が故に、過剰な怒りや敵意となって表れる。

 


だから僕は、怒りや都合に任せて子どもを分類することに強い違和感を覚える。

 


できることなら、子どもたちを特定の枠に当てはめず、一人の人間としてありのままに見つめたい。

 


「被害者と加害者」に分かりやすく分けてしまいたくなる衝動は、僕の中にも確かにある。

 


しかし、「その衝動は、実は大人自身の感情や都合に起因しているのではないか」と自らを内省することで、一歩引いて彼らと向き合うことができるはずだ。

 


枠を外し、ありのままの姿を受けとめること。それが、地域の大人が子どもたちと真摯に向き合うための、第一歩ではないだろうか。

友達を大事にするには

「友達を金で釣る」。「条件をつけてこき使う」。「暴力や恐怖で支配する」 。

 


大人が顔をしかめるような関係性も、子どもたちの日常的な遊びの世界では決して珍しい光景ではない。

 


お菓子で仲間を釣ったり、「約束破ったらボコす」などと脅したりする姿を、僕達プレイリーダーは少し離れたところからハラハラしながら見守っている。

 


どのように介入するのがベストか?いや、彼らの学びとリカバリーの力を考えると下手に介入しない方が良いのか?延々と葛藤している時がある。

 


なぜすぐに止めに入らないのか。

 


それは、一つには、遊びという「誰もが純粋に楽しさを求める空間」において、支配的な関係は決して長続きしない、という現場レベルの確信がある。

 


理不尽な振る舞いを続ければ、必ず周りは離れていき、最後には孤立する。

 


すぐに介入しないもう一つの理由は、この「関係性の失敗と孤独の(回復できる程度の)痛み」は、他者の大切さを知るために、子どものうちに経験した方がいい重要なステップだと思っているからだ。

 


しかしながら、ただ孤立するだけでは、おそらく根本的な解決にはならない。

 


なぜなら、傷ついた子どもは「離れていったあいつらが悪い」と他責にし、自分のあり方から目を背けることも簡単にできてしまうからだ。

 


ここで大人が「お友達を大事にしないとダメだよ」と正論を説いても、子どもは都合よく気づきを得てくれたりはしないと思う。

 


彼らに本当に欠けているのは、説教ではなく「では、どうすれば相手を大事にできるのか」という具体的な方法と、何よりその土台となる経験だ。

 


例えば相手の言葉を最後まで遮らずに聴き切る。

 


例えば相手の気持ちや背景を理解しようと試み続ける。

 


例えば見返り(条件)を一切求めず、相手のために動く。

 


子どもがこれを他者に向かって体現するには、まず自分自身が誰かから「条件なしに大切にされた」という原体験が不可欠だと思う。

 


自分が無条件に大切にされ、自然と「ありがとう」が湧き上がる体験。 自分が誰かを大切にし、その結果として「ありがとう」と感謝される成功体験。

 


この「大切にされる・する」という二つの経験の往復があって初めて、子どもは損得や支配に頼らない、本当の繋がりを築いていけるのだと思う。

『自分が100%正しい』ってとこが嫌い。と子どもに言われて。

「ゆうじの嫌なところは、『自分が100%正しい』って信じて言ってくること」

先日、子どもからぶつけられた言葉。

その時の僕は心の余裕がなく、思わず正論でねじ伏せるように言い返してしまった(そういうとこだ)。彼が本当に伝えたかった言葉の奥のサインを見落としたまま。

しかしその30分後、だんだんモヤモヤしてきた。

「彼はうまく言葉にできなかっただけで、本当はただ、自分の声を聞いてほしかったのではないか?そして、そんな事が、ずっと叶わないのでいるのではないか?」

その子の生育環境を思って、はたと気づき、遊びの輪が落ち着いたタイミングを見計らって彼に声をかけた。

周りには彼の友達もいる。大人のプライドもあって、正直ドギマギした。

彼の本当の気持ちを確かめた後、「さっきはしっかり話を聞かずに、ごめん」と素直に頭を下げた。

すると彼は、僕の話をしっかり聞いた上で、「良いよ」と受け入れてくれた。

子どもは、大人の振る舞いを驚くほどよく見ている、と、よく感じる。

不誠実な大人ばかりに囲まれて育てば、子どももまた人を信じられなくなり、本当の声を上げることを諦めると思う。

逆に、間違えた時に誤魔化さず、「ごめんなさい」と言える大人が身近にいれば、彼らもまた他者の失敗に寛容になれる。

恥ずかしさでドギマギする自分を振り返ると余計に、子どもたちの前で「誠実であろうとする大人」でありたい。