本当は、全部遊びで良い

地域に子どもの遊び場を作るプレーリーダーという仕事をしています。

【子どもから光を奪う、大人の”正したい反射"】

「危ないぞ」、「怖いなあ」、「それは、やめてよ」、そんな言葉で、子どもの遊びを反射的に止めてしまう事が、僕にも未だにある。

もちろん、主に「危ない」と思っているから止めるのだが、一方で、脊髄反射的に出てしまうこの態度を「正したい反射」と呼んで気をつけている。

そして、これをやってしまった日は丁寧に振り返り、自分に問いかける。
「なぜ僕は、あの遊びを止めたかったのか?」

「怪我やトラブルが心配で止めた」のであれば、その怪我はどのくらいの発生率で、どの程度の被害規模を想定していたのか。それをちゃんと言語化できるか。

もしかしたら、「なんとなく怖いから」という理由にすぎなかったのではないか。

これを 「直感」と言ってしまえば聞こえは良いが、根拠の曖昧な直感を振りかざすばかりが、遊びの専門職の職能だとは到底思えない。

僕は「うまく説明できないけれど、なんとなく危ない気がする」という直感は、日々の実践の積み重ねの果てにある、“最後の手札”として持っておきたい。

つまり、反射的に子どもの遊びを止めるのは、できる限り、「やむを得ない時」にしたい。

なぜなら、大人がその遊びを止めてしまうことで、子どもから奪うものは、少なくないと考えるからだ。

遊びを止める事で奪うものは、単なる「成功体験」とか「失敗体験」にとどまらない。

「この大人は無闇に奪いにこない」という心底の“信頼感”。
「この世界はやっぱり面白いんだ!」という“好奇心”や、「自分は道を切り開いていけるんだ」という"希望"。

それを子どもから奪い続けた先にあるものは何か?を時折考えてみる。

子どもの目から光が失われ、僕らは信頼を失い、遊び場は管理された「遊ばせ場」に成り下がり、遊びは本来の価値をどんどん失っていく。

もちろん、命や尊厳を守るために、遊びを止めなければならない瞬間は必ずある。常に警戒すべきだ。
しかし、自分の経験不足ゆえに見通しが立たず、反射的に止めてしまう事態も沢山ある。

だからこそ、僕は毎度立ち止まって考察する。
「それは、どのように、具体的にどの程度危なかったのか?」
「本当に、止める以外の選択肢はなかったのか?」

もし「自分がやったことがないから、よく分からずに怖くなっただけ」ならば、まずは自分もやってみる、というのが一つの手だ。

そういう地道な積み重ねの果てにこそ、本当に信頼に足る、自分自身の直感が培われていくと思う。

"自由"と"勝手"の境界線

「自由だからって、なんでもしていいわけじゃないぞ!」

遊び場にいてこんな声を耳にした事が数度ある。

冒険遊び場が自由な遊び場とはいえ、あまりに自分勝手に振る舞う子どもに痺れを切らした親の声だった。

確かに、どこまでが「自由」で、どこからが「勝手」なのか、少し曖昧な自分に気づく。

そこで改めて考える。

「自分勝手」ってなんだろう。他者の存在や社会のルールを一切省みず、自分の欲望だけを優先するという、孤立した考え方や振る舞いの事だと思う。
そこには他者への配慮がなく、ルールを軽んじる身勝手さが伴う。

一方で、僕が肯定したい「自由」とは、なんだろう。完全なる無秩序や「なんでもアリ」とは違う。(ガチガチなルールに縛られた場と比較して、あえてそう表現することはあるが)。

それは他者を尊重し、共通のルールを自ら引き受ける(その上で敢えて破ることもある)という基盤のうえに成り立つポジティブなものだと思う。

冒険遊び場は、これを体現する可能性を秘めた場所だと思っている。

一見すると、ここは「ルールがない自由な場所」と理解されがちだが、実際はその逆と言えるかもしれない。そこには遊びの数だけルールが存在し、子どもたちの遊びの数だけ選択肢がある。

たとえば極端な例だが、僕は場内における暴力を禁じている。しかし、「喧嘩をするか・しないか」を選ぶ自由や、その解決に向けて暴力以外の手段を模索する自由は、しっかりと残されている。

このように、一定の制限や枠組みがあるからこそ、その中で何を選ぶかという自由が際立つように思う。つまり、制限と自由は対立するものではなく、互いを支え合っているのではないか。

したがって、制限を単なる抑圧として否定するのではなく、自由を成立させるための「柔軟なフレーム」として捉え直すことが重要に思う。そして、そのフレーム自体もまた、より豊かな自由を生み出すために、参加者によって自由に考えられ、更新されていくことが望ましい。

子どもは自由な遊びの中で、プレイヤーの技能や条件に応じて、どんどんルールを更新してゆく。先日は異年齢同士の鬼ごっこで、あまりに参加者の能力に差がありすぎたため、「高学年は早歩きのみ」と、おそらく低学年も互角に遊ぶための"縛り"が、子ども達の中で考案されていた。

まとめよう。

自由とは、無制限の放任ではない。
他者と共存するためのルールを引き受けたうえでの、主体的な選択の積み重ねだと思う。

【子どもを「被害者」と「加害者」に分けない】

子どもたちの間に起こるトラブルを、「被害者」と「加害者」という二項対立で分類することの危うさについて考えている。

 


僕たちはつい、「加害者には罰を」「被害者にはケアを」と、事態を単純化して処理しようとしてしまう。

 


そうやって分類すればわかりやすいし、社会の常識としても間違っていないように見えるため、納得した気になれるからだ。

 


しかし、それは「思考停止」でもある。少し引いて全体を見渡せば、加害に及んでしまった子ども自身が、実は「見えざる被害者」であることは決して珍しくない。

 


そもそも、加害・被害の立場は固定されたものではなく、状況次第でいつでも入れ替わり得るものだ。「お前が加害者だ」と決めつけられた子どもが、「だってあいつが先に手を出してきたんだ」と訴えることがある。本来なら「やられたらやり返せ」と煽るような社会に生きているにもかかわらず、大人の前ではその切実な訴えは通用しない。

 


さっきまでは明らかに被害者だったのに、その事実を誰にも視認してもらえなかったが故に、反撃した途端に加害者に仕立て上げられてしまう。こうした理不尽な「やられ損」が心に積み重なれば、子どもが人間不信に陥るのは必然だろう。

 


だからこそ、子どもという存在そのものを枠にはめ込み、評価すること自体に無理がある。

 


さらに根深いのは、この構図に介入する僕たち大人が無意識に抱く「感情」の問題だ。

加害をした子どもに対して僕たちが抱く怒りは、「その子が加害者だから」という純粋な義憤から湧き上がるとは限らない。むしろ、「加害者は罰せられ、反省しておとなしくしているべきだ」「むかし私も同じような痛い目にあったから」といった、大人自身の過去の経験や凝り固まった価値観の投影が故に、過剰な怒りや敵意となって表れる。

 


だから僕は、怒りや都合に任せて子どもを分類することに強い違和感を覚える。

 


できることなら、子どもたちを特定の枠に当てはめず、一人の人間としてありのままに見つめたい。

 


「被害者と加害者」に分かりやすく分けてしまいたくなる衝動は、僕の中にも確かにある。

 


しかし、「その衝動は、実は大人自身の感情や都合に起因しているのではないか」と自らを内省することで、一歩引いて彼らと向き合うことができるはずだ。

 


枠を外し、ありのままの姿を受けとめること。それが、地域の大人が子どもたちと真摯に向き合うための、第一歩ではないだろうか。

友達を大事にするには

「友達を金で釣る」。「条件をつけてこき使う」。「暴力や恐怖で支配する」 。

 


大人が顔をしかめるような関係性も、子どもたちの日常的な遊びの世界では決して珍しい光景ではない。

 


お菓子で仲間を釣ったり、「約束破ったらボコす」などと脅したりする姿を、僕達プレイリーダーは少し離れたところからハラハラしながら見守っている。

 


どのように介入するのがベストか?いや、彼らの学びとリカバリーの力を考えると下手に介入しない方が良いのか?延々と葛藤している時がある。

 


なぜすぐに止めに入らないのか。

 


それは、一つには、遊びという「誰もが純粋に楽しさを求める空間」において、支配的な関係は決して長続きしない、という現場レベルの確信がある。

 


理不尽な振る舞いを続ければ、必ず周りは離れていき、最後には孤立する。

 


すぐに介入しないもう一つの理由は、この「関係性の失敗と孤独の(回復できる程度の)痛み」は、他者の大切さを知るために、子どものうちに経験した方がいい重要なステップだと思っているからだ。

 


しかしながら、ただ孤立するだけでは、おそらく根本的な解決にはならない。

 


なぜなら、傷ついた子どもは「離れていったあいつらが悪い」と他責にし、自分のあり方から目を背けることも簡単にできてしまうからだ。

 


ここで大人が「お友達を大事にしないとダメだよ」と正論を説いても、子どもは都合よく気づきを得てくれたりはしないと思う。

 


彼らに本当に欠けているのは、説教ではなく「では、どうすれば相手を大事にできるのか」という具体的な方法と、何よりその土台となる経験だ。

 


例えば相手の言葉を最後まで遮らずに聴き切る。

 


例えば相手の気持ちや背景を理解しようと試み続ける。

 


例えば見返り(条件)を一切求めず、相手のために動く。

 


子どもがこれを他者に向かって体現するには、まず自分自身が誰かから「条件なしに大切にされた」という原体験が不可欠だと思う。

 


自分が無条件に大切にされ、自然と「ありがとう」が湧き上がる体験。 自分が誰かを大切にし、その結果として「ありがとう」と感謝される成功体験。

 


この「大切にされる・する」という二つの経験の往復があって初めて、子どもは損得や支配に頼らない、本当の繋がりを築いていけるのだと思う。

『自分が100%正しい』ってとこが嫌い。と子どもに言われて。

「ゆうじの嫌なところは、『自分が100%正しい』って信じて言ってくること」

先日、子どもからぶつけられた言葉。

その時の僕は心の余裕がなく、思わず正論でねじ伏せるように言い返してしまった(そういうとこだ)。彼が本当に伝えたかった言葉の奥のサインを見落としたまま。

しかしその30分後、だんだんモヤモヤしてきた。

「彼はうまく言葉にできなかっただけで、本当はただ、自分の声を聞いてほしかったのではないか?そして、そんな事が、ずっと叶わないのでいるのではないか?」

その子の生育環境を思って、はたと気づき、遊びの輪が落ち着いたタイミングを見計らって彼に声をかけた。

周りには彼の友達もいる。大人のプライドもあって、正直ドギマギした。

彼の本当の気持ちを確かめた後、「さっきはしっかり話を聞かずに、ごめん」と素直に頭を下げた。

すると彼は、僕の話をしっかり聞いた上で、「良いよ」と受け入れてくれた。

子どもは、大人の振る舞いを驚くほどよく見ている、と、よく感じる。

不誠実な大人ばかりに囲まれて育てば、子どももまた人を信じられなくなり、本当の声を上げることを諦めると思う。

逆に、間違えた時に誤魔化さず、「ごめんなさい」と言える大人が身近にいれば、彼らもまた他者の失敗に寛容になれる。

恥ずかしさでドギマギする自分を振り返ると余計に、子どもたちの前で「誠実であろうとする大人」でありたい。

【自殺者が増える夏休みの終わりに、不登校だった自分が思うこと】

僕自身もかつて、不本意な不登校を経験した。

ただ、当時の僕は、完全に学校を休むことを認めてもらえなかった。どうしても学校に行きたくないと泣きじゃくる僕に、親と教師が下した処置は「毎日時間をずらして登校し、学校の片隅にある狭い放送室で自習すること」だった。

息を潜め、廊下を通るクラスメートの声に怯えながら、自習するフリをする以外に何の選択肢もない毎日だった。

「ダメな俺を丸ごと認めてくれる人」とか「安心できる場所」とは程遠い虚な空間と最小限のやりとり。

そんな子ども時代を過ごした影響もあって20代の人生も散々なものだった。幼少の頃から親に求められてきたステレオタイプのシナリオからは完全に転落してしまった。

では、なぜそんな自分が社会復帰できたのか。

思い返すと、絶望した時に「死ぬ以外の選択肢」を複数持てたことは大きい。僕を救ってくれたのは、大きく2つ。

1つ目は、インターネットや本で手に入る自立的な情報だった。ウェブ上には、精神科に通い、アルバイトをしながらどうにか身を立てている人たちがいた。本には、「親への過度な依存関係を断ち切り、今こそ自分のために生きて行け」という精神科医の見立てが書かれていた。
手の届くロールモデルが散見できたことで、それが自分の新たな道筋となってくれた。

そして2つ目は、励まし合える人がいてくれたこと(親でも先生でもなかったが)。その人は今は妻。

一度は絶望した。生き方は自分で決めるしかなくなった。しかしその絶望の中でも,
①手の届く選択肢を知る機会があり、
②不格好でも支え合える存在がいれば、人はなんとか生きていける。

・"学校ムリでもここあるよ"(オンライン)→
 https://peatix.com/event/5115967

・"子どもの居場所は難しい?"(国分寺市)→
https://www.boukenasobibanokai.or.jp/training.html?fbclid=IwVERDUAToB1FwZG9mBWZkaWQWUMQPDyZ5W44HesBBkTV-9zF10HcBvWV4dG4DYWVtAjExAHNydGMGYXBwX2lkCjY2Mjg1NjgzNzkAAR6LnS1G5xMTj9NmnzpfQMBVt5eLGDifKd_v-HNpO-jGjChad-gkJqNKzXKNzQ_aem_Hrm0ac5SPCh3cUN

 

#居場所 #夏休み明け #フリースクール #プレーパーク #冒険遊び場

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学校ムリでもここあるよ

夏休み明けの時期(主に8月後半から9月上旬)は、18歳以下の子どもの自殺数が1年間で最も急増する極めて危険な時期です。 
特に9月1日は子どもの自殺数が突出して多い日として知られており、学校が再開するタイミングが強い心理的負荷となっています

そんな夏休み明け前に、下記イベントに,登壇します。無料でご視聴いただけます。ぜひ。↓

【2026年度オープニングイベント】《テーマ》

 今こそ、子どもたちの世界を生きやすく!

 


《日 時》

 2026年8月20日(木)19:00〜21:30(予定)/Youtubeでのオンライン配信

 ※Youtubeにアーカイブが残りますので、後日の視聴も可能です。

 


《参加費》無料

 ※寄付にご協力いただける方は、Peatixで寄付チケットのご購入をお願いします。

 


《スケジュール》(予定。変更になる可能性があります)

 ・19:00~19:05 挨拶、キャンペーンの紹介

 ・19:05~19:20 (1)子どもたちの「死にたい、消えたい」声から、

                    その気持ちや背景を考える 中村 尊

 ・19:20~19:40 (2)―① チャイルドラインという「子どもの心の居場所」 谷山 啓太

 ・19:40~20:00 (2)―② 「学校」を「子どもたちの生きやすい居場所」に 薄田 茂樹 

 ・20:00~20:20 (2)―③ 地域に子どもの居場所があることの大切さ 奥冨 裕司

 ・20:20~20:40 (2)―④ 家庭が子どもにとって心休める居場所であるために 池添 素

 ・20:40~20:45    ~  休 憩  ~

 ・20:45~21:05 (3) 質疑応答

 ・21:05~21:25 (4) 「子どもたちの世界を生きやすくするために」おとなは何ができるのか

 ・21:25~21:30 クロージング

 


主催:NPO法人フリースクール全国ネットワーク

共催:#学校ムリでもここあるよキャンペーン実行委員会

協力:認定NPO法人 チャイルドライン支援センター

 


登壇者の情報等イベントの詳細はこちらからご確認ください

https://peatix.com/event/5115967

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