遊びと子どもについて語り尽くす

地域に子どもの遊び場を作るプレイリーダーという仕事をしています。

創造的な想像力と遊び

①想像力と子どもの遊び

 


 女の子が泥水溜まりにどっぷりと浸かって、ヒヨコのフィギュアをバシャバシャと洗っています。こういうの、冒険遊び場では割とよく見る光景です。彼女は3歳くらいかな?何か、ずっとしゃべり続けています。「さ、綺麗にしましょうね?あら、まだ洗って欲しいの?」と、手にしたヒヨコに話しかけているようです。

 


 で、おもむろにソイツを泥にぶち込んで、荒っぽくザバザバと掻き混ぜるので、見てるこっちは「死んじまう!(本物なら)ヒヨコ死んじまうぞ!」と思わずツッコミたくなります。しかしこんな時こそ、そっと観察してみてください。子どもが遊ぶことの、更なる意味が発見できるはずです。

 

 

 

②現実世界を遊ぶセンス

 


 この女の子の遊びも、一連のそれを面白いと感じる僕の感覚も、「センス・オブ・ワンダー」と呼べるものだと思います。生物学者レイチェル・カーソンが、自然の不思議さに目を見はる感性を描いた、同名の本がベストセラーですね。

 


センス・オブ・ワンダーは、直訳すれば"不思議感"でしょう。僕はこの不思議感という感覚は、子ども時代であれば誰もが備え得る「創造的な想像力(Creative Imagination)」をエンジンに駆動していると考えます。

 


前述の女の子は、手にしたヒヨコにちょいと命を吹き込んで、お風呂だか洗濯だか、日常生活の一場面を、創造的な想像力を用いて遊んだ(再現した)訳です。

 


 「創造的な想像力」は、ただの妄想や空想とも違います。「彼女がこれまで経験してきた様々な事象を、もう一度彼女の解釈で再構築して、新しいイメージを作る」と捉える事ができます。それこそ「現実世界を自由に遊ぶ」という事ではないでしょうか。

 

 

 

③子どもが遊び続けるワケ

 


子どもの遊びというのは、その子独自の不思議感を刺激して、不思議を体験しているという事だと思うのです。

 


 例えば鬼ごっこは、全力で追いかけてくる恐るべき相手と、肉体を限界まで使えばどうにか逃げおおせるかもしれない自分とを、創造的に想像していると思います。したがって、この想像力が豊かなほど鬼ごっこはエキサイティングなのです。

 


 想像力が発揮されるのは、ごっこ遊びに限りません。例えば虫取りだって、子どもはただ虫を捉えているだけではないと思うのです。虫という謎すぎる生命体と、そんなヤツを捕獲せしめる可能性。それらを頭の中に想い描くからこそ、虫取りにも興奮があるのだと思います。

 


 ビー玉の様にキラキラした目で虫を観察し続ける"虫博士"な子どもは、虫の造形や習性を知ってしまえば満足して飽きてしまう、というわけではありません。見つめるほどに目に見えないところを創造的に想像し、ますます訳のわからん不思議さを感じて「コイツから、さらに多くの情報を得る!」と言わんばかりに見つめ続けるのだと思います。

 

 

 

④ここは本当はワンダフルな世界

 


 どんな子どもにとっても、この世は知らないことだらけです。それはつまり、色々わかったつもりでいる僕達大人にとっても、この世界はもともとは不思議に満ちたワンダーランドだった、という事になります。ところが、みんなが大人になる頃には、あれだけ夢中になっていた鬼ごっこに「ただ追いかけたり逃げたりするだけ?かったるいわ〜」ってなります。虫にも「さして興味ないわ〜。むしろ気持ち悪いわ〜」ってなります。なりません?それは羨ましい。僕はなりました。しかし、子どもの頃は確かに、大量のダンゴムシを小さなポケットにパンパンに詰め込んでしまうような凶悪なエンジンを搭載していたんですよ。

 


 人は、創造的な想像力を駆動して、「この世に生きているって、すごいな」と実感するのだ思います。僕はそういう感覚に憧れて、「子ども時代にもっと不思議を愛し抜けたら良かったなあ。周囲の目、特に大人の目を気にして、遠慮し過ぎていたかもなあ・・・・」などと少しセンチメンタルになる時があります。そんな時、目の前の子ども達の目線を借りるように、彼らが見つめるものに目を凝らしてみます。「すげえなあ、面白いなあ」と全身で反応する子ども達から、その感覚を再び学んでいるような気持ちになるのです。