遊びと子どもについて語り尽くす

地域に子どもの遊び場を作るプレイリーダーという仕事をしています。

子どもの遊び場を、子どもから守ったという失敗談

プレイリーダーとしての苦い思い出ですが、子どもに関わる人にとって参考になると思うので書いてみます。

 


僕には、子ども達のイタズラや嫌がらせに対して、①厳しく叱責するか、②それでも言うことを聞いてくれないなら大声で怒鳴りつけるか、くらいしか選択肢を持たなかった時期があります。

 


当時とある遊び場に、必ず5〜10人くらいの徒党を組んで来場する、高学年の子ども達がいました。まだ新参者だった彼等は、来るたびに他の常連の子ども達を離れたところから嘲笑しました。嘲笑された方が「今こっち見て笑ってたよね?なんか用?」と反応してくれば「は?笑ってねえしw何言ってんの馬鹿じゃねw?」とニヤニヤする彼等。僕は、そんな彼らの態度を見るたび不快感を募らせ、この気持ちをとにかく彼らに伝えて、改めさせたい気持ちでいっぱいでした。

 

 しかし、彼らの嫌がらせは収まるどころか、さらにエスカレートしていきます。例えば他の子どもが飼育するために釣ってきたばかりのザリガニを、彼らは戯れに全て踏み潰して一目散に逃げていきました。幼児が大事に使っていた30個程のミニカーを全て持ち出して、ゲラゲラ笑いながらトンカチで粉々に粉砕した事もありました。漫画部屋の漫画数十冊をビリビリに破いて、凄惨な山を築いたこともあります。本当か嘘か、彼らは「俺たちクラスを学級崩壊させた仲間だ」「”先生死ね"って黒板にでっかく書いて、担任辞めさせてやった」「俺は昔いじめられてたから、今度は俺達がいじめる番だ」と豪語していたものです。

 見かねた利用者から「プレイリーダーは怒ってくれないの?」などと声が上がりました。遊び場の運営に関わる人々からも「もっとユウジに怒って欲しい」とか、「子どもに嫌われる事を恐れてるから、怒れないのでは?」などの意見があがりました。実際は、怒ってなかったわけでも、子どもたちに嫌われるのが怖かったわけでもないのですが。

 


 しかし今思い返せば、当時の僕はこれらの大人の評価にとてもビクビクしていたようです。つまり、子どもの遊びや育ちに貢献したい気持ちからではなく、他人(主に大人)に認められたいという動機ばかりで行動するようになっていたのです。だから、この5年生達の心理を机上で分析はしても、(現在僕がするように)彼等の言動の背景に思いを馳せて、その言動のひとつひとつをよく観察し、そこへいちいち共感と尊重を試みる、などということは一切しませんでした。

 

 その遊び場には、「コラァ!」「やめろ!」「もう使わせないぞ!」というような僕の一喝が響くようになりました。しかし、どうやらそのように叱られるのには慣れっこだった彼等にはさほど効き目がなかったようです。だから、僕は声をどんどん大きくしてゆくしかありませんでした。そして最終的には、全身全霊を込めた声量をもってして、彼等を鎮圧するのです。

 

 そんな日々を繰り返すうちに、いつの間にか彼らは来なくなっていました。遊び場は、驚く程平和になりました。僕は当時これを後悔するでもなく「遊び場を守り抜いた」とすら思っていたのです。

 

 それからさらに一年ほど経ったある日のことです。偶然、街のファミレスでたむろする彼らを見かけたのです。楽しそうにモバイルゲームで遊んでいたようでしたが、大人数でソファの背やテーブルの上にも座って、混雑した店内を笑いながら走り回っていたので、遠目にも彼らの柄の悪さと、困っている店員の姿が目を引きました。店内に入って声をかける事もできた筈なのに、僕はショックで思考停止してしまい、それを見て見ぬふりするしかありませんでした。

 


 8年前の話ですが、この時以来、僕は彼等のことを事あるごとに思い返し、自問します。

 


 "子どもの遊び場"などと謳う場所で、僕に全力で怒鳴りつけられた彼等は、何を得たのでしょうか?「やっぱり嫌がらせは、悪いことだよなあ」などと気付きを得る、わけがありません。それどころか彼らは「なあんだ、やっぱりここも、こんなもんか」と、元々信じていなかった世の中への不信感を、さらに募らせたのではないでしょうか。だから、最後の方はその嫌がらせ行為も鳴りを潜めていたけど、その理由は僕や他の利用者に共感したからではなくて、「アイツに怒られるのが面倒臭いからやめとこう」くらいのものだったのではないでしょうか。挙句、「やっぱり、ここもつまんねえな」と、全員来なくなったのだと、考えてしまいます。

 


 「子どもの遊び場を、子どもから守り抜いた」なんて、プレイリーダーにとってこんな惨めな話はないと思います。

 彼等は自ら来なくなりました。それも彼等の選択だったことには違いありませんが、「彼等に遊び場が必要なかった」とは、僕には到底思えないのです。

 子どもに人の心を少しでも理解して欲しい。と願っています。であればこそ、まず僕が子どもを理解し、受け入れる必要があったのです。