遊びと子どもについて語り尽くす

地域に子どもの遊び場を作るプレイリーダーという仕事をしています。

冒険遊び場(プレイパーク)と子どもの「やってみたい!」❸

❸子どもの気持ちを尊重しようとするあまり、いつの間にか自分自身に無理強いしてしまう事があります。

 

 例えば僕が自分の感情を隠してばかりいると、共に過ごす子どもにとっては「何をしても怒らない都合の良い大人」ではあっても、「一緒にいて安心できる人」にはなりきれてないと思うのです。だって、感情が読めないんだから。

 また、そもそも僕が無理をして心や体を壊してしまったら、遊び場の運営に支障をきたすと思います。すると、それは子どもが居場所を失くす事になりかねません。

 

 だからそんな時は、「僕自身の感じ方も、キミの感じ方と同じくらい大切にする価値がある」と思い出すようにしています。もちろん「自分の欲求に関して子どもに一歩も譲らない」ということではありません。
 
 例えば「あと1時間もしたら、僕は家に帰って明日のために準備する必要があるんだ。だから、子どもがいつ帰るか分からない事に、こんなにもヤキモキするんだな」などとハッキリ言葉にしてみます。1人でこれを呟いてみたり、可能なら子どもに直接相談してみたりします。すると、残りの遊び時間を決める流れになるかもしれません。そうはならないかもしれませんが。

 

 それでも、言葉にしないよりは、僕自身の折り合いがつく事が重要なのです。

 

 決して簡単でも便利でもないと思いますが、子どもが自分を大切に想える事が望みだからこそ、僕は自分の感情も子どもの「やってみたい」と同じくらい大切に考える事にしています。

冒険遊び場(プレイパーク)と子どもの「やってみたい」❷

❷「子どもの"やってみたい"を尊重する」というのは、もちろん「ただ子どもの要求に従う」という事ではありません。

 

 例えば、遊び場の閉場時間、子どもが「まだ帰りたくない!もっと遊びたい!」などと癇癪を起こしている時はどうでしょう。余裕のある返答が出来ない時もあるでしょう。しかし、普段から意識する事で、自分が"聞く耳を持つ"というのは可能になるかと思います。

 

 例えば、「帰りたくないのかあ」と、子どもの気持ちを噛み締めてみる。それが出来たなら、言葉をただ伝え返すだけでも子どもからすれば「聞く耳を持たれた」ことになるかもしれません。

 また、その子どもをよーく観察していたのならば、「まだ何かやりたい事がある?そういうわけではないけど、ただ気持ちを受け止めて欲しい?」などと、言動からは容易に読み取れない、深い動機を見立てる事ができるかもしれません。それならば、「今はまだここにいたいのかな。それをわかって欲しくて嫌な気分かい?」などと聞いてみれば、ヒントを得られるかも、しれません。

 

 こんなふうに、子どもの感情に全身で耳を傾ける事が出来たなら、「子どもを説得したり、だまくらかしたり、力づくで帰らせる以外にも選択肢はあったんだ」と気づきます。※子どもがこれで帰るかどうかはわかりませんが。

 


 聞く耳を持つ事は、僕自身が自分を追い込まずに、自由に解き放たれるための重要な要素です。

冒険遊び場(プレイパーク)と 子どもの「やってみたい」❶

 子どもがいつか自分の欲求に折り合いをつけられるようになるには、ひたすら我慢する経験より、「やってみたい!」を納得いくまでやってみる経験が必要だと思います。「やってみる」ができたから、「やめておく」も主体的に選べるようになるのではないでしょうか。だから、それがいかに子どもっぽくて、いかに馬鹿げていようと、また多少は危なかろうと、ちょっと他人に迷惑かもしれない行為だろうと、(リスクの少ない幼いうちに)出来るだけ尊重されて欲しい、と思うのです。

"生きようとする力"

❶"遊び"と"生きようとする力"

 


 僕は10代後半から20代にかけて、トイレに行くのも不安で、オシッコをペットボトルに溜め込んでしまうほどの引きこもりでした。寝るか夢想するか以外は、過食嘔吐を繰り返す毎日。いつのまにか、チラシの裏に絵を描き始めていました。他人から見てキモかろうが下手かろうが全く気にする事なく、「理想の恋人(綾波レイっぽい誰か)」とか、「ただの青空」とか、「手」「変形した顔」だとかを鉛筆とかクレヨンで無我夢中に描きまくったものです。それが一歩も外に出ることができない自分を解放する、生きようとした結果。つまり遊びだったのでしょう。18の頃です。

 


 しかし、それから3年も過ぎた頃には、絵を描く純粋な喜びは消え失せ、描くたびに神経をすり減らし、日を追うごとに漠然とした不安を募らせていました。

 


 絵を描き続けていれば、それなりに画力はつくものですが、技術と知識、そして他人からの評価も上がっているにも関わらず「不安を募らせた」とは、どういうことでしょうか。

 


 重度の引きこもりで一年以上他人と声を交わす事さえできなかったくせに、僕は当時、親の手前「美大に進学する」なんて言い出しました。それが、自分が人として認められる必須条件だと思い込んでたんですね。そうして入った予備校で、目に見えて上昇する順位と共に、人に褒められる快感を覚えます。イジメや不登校を経て、それまでずっと自己を否定しながら生きてきた青年が、生きる希望をそこに見出して縋りついてしまうのは、無理からぬ事だったな、と振り返ります。

 

 

 

❷褒めて伸ばすか、共感されて伸びるか。

 

 ところで、子ども関係の事業に出入りしていると、「褒めて伸ばそう」なんて言葉を耳にすることがあります。それこそが子どもの自信になるのだ、と多くの人が信じているようです。褒めて伸ばすとは、つまり「大人がこどもをおだてること」と僕は解釈します。

 


 たしかに、子どもが何か"好きな事"を始めた時、それを誰かに共感してもらえたならば、その子は"好きな事"も"それをしている自分"も、益々好きになることでしょう。

 


 しかし、「共感する事」と「おだてる事」はずいぶん意味合いが違うように思います。何故なら、前者はありのままの子どもと共に生きることが目的になりうるけど、後者は「子どもにもっとこうなって欲しい」という明確な意図があるからです。

 

 

 

❸自信と優越感

 


 褒められる事も、良い成績を納めることも、生きていればままある事です。そうなれば誰だってある程度嬉しいでしょう。時には褒められたくて頑張っちゃうのもうなづけます。

 僕が問題視しているのは、「他人から褒められる事を、生きる目的にしてしまうこと」です。この生き方は「自信には他人からの賞賛という根拠が必要」という考え方に繋がります。そうなるともう「自分を信じている」とは言い難く、とても自信とは呼べません。それは優越感です。

 そして優越感の根拠たる賞賛が得られなかった時には、「がらんどうの自分」が顕になります。いわゆる自己不在です。優越感を育んでいる人は、同時に虚無感をも育んでいるという事です。

 


 自信と優越感、一度きりの人生を生きるにあたってどちらが豊かかは、自明だと思います。

 

 

 

❹自我の芽

 


 僕は、誰もが毎日を通して、自らの内に自我の芽を育てているのだ、と想い馳せます。僕が絵を描き始めたのは、萎れかけていたその芽が微かな光を見つけて、ようやく蔦を伸ばそうとした現れだったのではないでしょうか。

 


「子どもを褒めて伸ばそう」とか「自分は褒められて伸びるタイプ」とか聞くと、僕は"人が備えている生きようとする力"を尊重したいので、心配になってしまうのです。

「トラブル対応も"遊び"になる」

❶この対応が一体何に貢献しているか?

 

 子どものトラブル対応だって、ものによっては結構ハードである。しかし、自分のその対応が何に貢献しているのかハッキリしていれば、これも"遊び"にすることができる。決して簡単ではないが、マジだ。※もちろんこの考え方は、子どものトラブルに限らない。

 

 では、「何に貢献しているのかハッキリしている」とはどういう状態をいうのか。

 

 

❷普段の自分の、言動の目的

 


 皆さんには目的があるだろうか?矜持とか、拘りとか、いわばあなたの人生を豊かにするために目指している"的(まと)"があるだろうか?僕の場合のそれは、僕が生きてゆく上で必要な事(ニーズ)のうち、より意図的に選んだものだ。例えば僕のニーズの中では、承認欲求は特に強いものだが、あえてそれを動機に行動しないように気をつけている。※気をつけてても、認められたくてやっちまう事はめちゃくちゃ多い。

それで出来る事なら、認められることより"認めること"を選ぶ。つまり自分の目的とは、"人生を豊かにするために目指すもの"と言っても過言ではない。

 

 じゃあ、僕が自分の人生を豊かにするために目指しているものとは、一体何なのか。もう少し具体的にいうと、まず始めに「信頼」と「安心」だ。鬱でパーソナリティ障がいを患ってきた僕にとっては、殊更これが必要で、人一倍欠けているものだ。

 そして、これを得るための戦略として、僕は「共感」と「尊重」を最も重んじている。という事は、信頼を得るために自分を抑圧して相手にひたすら迎合するとか、馬鹿みたいに可愛がるとか、そういう選択をしないという事だ。何故なら、共感と尊重そのものを重んじるという事は、「相手と同じくらい、自分自身にも共感と尊重を向ける」という事になるのだから。

 

 そうして培った信頼や安心が土台にあれば、次はそのまま人生の豊かさのために「挑戦」「貢献」を求める。言い換えれば、「冒険」だ。

 

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 このように、自分が普段から何をどう重んじているか言語化できていると、問題となる何事に対しても、相手の特性やその時の状況に応じて、具体的な方策が浮き出てくるはずだ。

 


❸目的に準じた指標

 


「状況に応じて」と言ったが、今回考える状況は「トラブル対応」である。これに応じた方策を思い浮かべると、僕の場合は次のようになる。

 

 

① 最低限の安全と安心を確保する。

(時に場の設定であったり、立ち位置であったり、手順やタイミングであったりする)

 

②相手の感情、その元となるニーズを見立て、共感(エンパシー)する事で、自分が相手を十分受け入れる。

(自分の受け皿を作る)

 

③相手の感情、その元となるニーズを確認し、尊重を示す事で、相手に十分自覚してもらう。

(相手の受け皿をつくる。作ってもらう)

 

④手段を尽くしてそれらを表現し、当事者間に行き渡らせる事で、相互理解の輪を作る。

(皿から皿へ、料理をお裾分けするように)

 


ざっくりとだが、①〜④はいわば前述の的(すなわち目的地)に到達するまでに、ところどころに立てておく指標である。これがないと、的を見失いやすい。

 


この事を事例と共に解説する。

 

 例えば、喧嘩相手を脅威と考えてパニックになった子どもを、そっと抱きしめて「大丈夫」と言うにとどめた時。これは彼の"安心"を達成するために、その時の僕にはベストの方策だったと思う。この時いきなり指標④の「相互理解」は選ばない。「彼の発達はそんな段階にない」と判断しているからだ。方策を選ぶという事は、現実検討する、という事でもある。

 

 そのほか、どうしてもルールを理解できない子どもに、「ここでは、順番を待つんだよ。そうすると楽しく遊べるんだよ」とシンプルに声をかけつつ、順番待ちのための一時停止線を引いたりしたこともある。これも選択した行動だ。善意による行動でも、もしかしたら子どもにとっては、自ら考える機会を奪われたことになるかもしれない。だから、選択に伴う責任は決して軽くない。しかしあえてこれを選ぶ。「自分でこれを選んでいる」と胸を張って言える事が、"遊び"の肝だ。

 

 また、指標①「最低限の安心と安全の確保」のために、子ども同士のトラブルの種そのものを僕が奪ったこともある。ある時は墜落も危ぶまれる高所で喧嘩を始めた子どもを前に、(彼らではなく)空に向かって「嫌だあ!」と叫んで、喧嘩の雰囲気を一旦吹き飛ばした。または、どうにも手があがりがちな子ども同士の取り合う物を、僕が持ちだして逃げちゃった、なんて事もある。このやり方は、マーシャル・ローゼンバーグ が「力の防御的行使」と呼んでいた。僕は、「子どもの自由を尊重したい気持ちもあるが、自分のこの目的は蔑ろにしない!」と考えてこの一見強気な行動を選択している。

 

 ④の相互理解にもう一つ付け加えると、子どもの感情を受け止めたり、その翻訳をしたりするだけでなく、大人が自分の感情を子ども相手に率直に伝える事は、お互いの人生を豊かにするためには欠かせない貢献だ、と言いたい。できることならその感情が湧き上がっている時に伝えたいものだが、子ども同士のトラブル介入時には、そうもいかない事が多い。大人側の心の準備ができていても、子ども側の心の準備ができていなければ、メッセージは伝わらないどころか、信頼を失う事になる。

 

 

❹遊びになるか、責務になるか

 

 トラブルの対応に「いつでもこうすれば良い」という簡単便利な答えはない。一発逆転のラッキーアイテムもない。実際にはただ日常で積み上げているスキルと意識、そしてその子どもとの関係性がものを言う。ただ、こうして書いてきたように、自分がそれをする事で何に貢献しているのかハッキリしていれば、それは自分を解放する"遊び"になる。そうでなければ、それは自分を縮こませる"義務"になる。

 


❺あとがき

 

僕は15年前から精神疾患を患っているので、こんなふうに考えなければうまいことやってこれなかったのかもしれない。逆に言えば、こんなふうに考える事ができれば、例え精神疾患があっても10年以上、心折れる事なく冒険できるわけだ。

 

 

 

子どもの暴力への対応

子どもの喧嘩(暴力)にどう対応しますか?と聞かれて

 

①『自我と自我』

僕は遊び場で子ども同士の喧嘩が起きても、喧嘩自体を即座に止める、という事はあまりしません。友達と仲良くして欲しい気持ちはもちろんありますが、それ以前にまずは、自分の気持ちを大事にしてほしいからです。

 とはいえ、やはり子どもなので、自分の気持ちをどうにか押し通したくて、つい手を挙げてしまう事もあるでしょう。これを「怪我をしないように見守る」というスタンスもあるようです。僕も以前はそうでしたが、現在はこの方針を見直しています。怒りのままに他人に力をぶつける行為を大人が見守ってしまうと、「なんでも困った時は力で圧倒すれば良い」と認める事になるのを危惧しているからです。

 


②『暴力以外の方法』

では、子どもが手を挙げてしまいそうな時はどう対応するのか?

出来る事なら、軽やかに介入して"暴力以外の選択肢"を照らすのが僕の理想です。しかし、すでに興奮している子ども達を前にどうしようもなかった事は一度ならずあります。10代の勢いの前では、軽やかな介入なんて簡単に相殺されちゃいますから。そんな時は「あー、暴力だけは勘弁してくれ!僕は安心が1番大事なんだ!」なんて無様に叫んでみた事もあります(子どもには鳩が豆鉄砲を食ったような顔されましたが、殴り合いはこれで止まりました)。

”暴力以外の選択肢”というのは、このように全身全霊で(子どもにではなく、空に向かって)表現する事だったり、率直な語彙を選択して、丁寧に届ける術だったり、時には遊びそのもの、という事もあるのです。

 

 

③『子どもの暴力性と遊びの専門職』

例えば

子どもが相手をぶん殴りたくなったのなら、そんなはやる気持ちを共に叫びながら、衝動の矛先をルールを決めた遊びに転換してゆく、なんて事もあります。

うまくいった時は、泥の投げ合いだったり、解体寸前の木工作品を、ゲームとして破壊する、そんな遊びに繋げることができます。サンドバッグはただぶら下げておくより、僕が抱えながら「よっしゃ打ってこい!」と受け止める方が盛り上がります。それを友達同士で始めたら、もう遊びですね。

 

 とにかく気をつけているのは、「子どもの怒りを大人の力で鎮めることはできない」という事です。これは、感情はその子のものであるという前提に立った考え方です。「そんな小さい事で怒るな!」と大人に言われて怒りが収まるわけではありません。そしてもう一つ。「人に叩きつけるだけがその表現方法ではないということを、大人だから示していかなければならない」という事です。僕は、こんな事が子どもの情動(遊び)に関わる大人の、重大な役割の一つであるとさえ考えます。

 


④『遊びから平和へ続く道』

子どもは遊びの中で滑ったり転んだりしたながら、痛みから逃れる術、すなわち自分で自分を守る術を学ぶと思います。しかし、痛みからそうした技術は学べても、そのモチベーションとなる"思いやり"そのものは学んでいないと思うのです。ましてや暴力による成功体験は、いつか暴力以外の表現方法を諦めるら十分な理由になってしまうのではないでしょうか。

 

平和に近づくためには「アンパンマンを見せない」「チャンバラをやらせない」という事ではなく、僕達が自分の中の暴力性をそこそこ認めた上で、それとうまく付き合ってゆく方法を模索し続ける事だと思うのです。

 

 

 

 

子どもに怒るという事

子どもが相手でも、怒りが湧いた時に怒る事は大切にしています。

 大人が感情を抑圧していれば、いつまで経っても子どもから信用されない(むしろ、ただ利用される)、と考えているからです。

 


 10年前にプレイリーダーとして遊び場の管理責任を担うようになってから、実に様々な子どもの情動を目の当たりにし、多大に影響を受け(てしまい)、沢山の感情表現を経験しました。場の秩序を守る事に執着して、小学生集団相手を全力で怒鳴りつけて凍りつかせてしまった(そして彼らは来なくなった・・・・)、なんてこともありました。

 


 今は、例え怒りが沸いたとしても、それを無遠慮に子どもにぶつけるような事は敢えてしないようにしています。それは遊びに来る子ども達に「とにかく先ずは安心してほしい」と望むからです。なので、「怒るのを我慢する」とか「怒りが自分でもよくわからない」という事とは違います。言葉と表情(と行動)を尽くして丁寧に、より率直に表現する方法を、毎回模索しているということです。

 


 これを実現するために僕の場合は、この数年毎日具体的なトレーニングを実践しています。教育学者コルト・ハーヘンの「8つの窓」というリフレクション(内省)のフレームワークと、非暴力コミュニケーション(マーシャル・ローゼンバーグ/NVC)の概念と語彙、それとスマホのメモアプリを組み合わせた自分なりの方法なんですが、これが実はとてもおすすめです。モヤモヤした感情を言語化して整理整頓することで、次になにをすれば良いのか(自分は何を望んでいるのか)が明確になります。それを繰り返しているうちに、今度はいつのまにか怒りの前段階にある、微細な感情の動きを表現していることに気づきます。「それを見ると僕は嫌な気分になる」「理解して欲しくて、うんざりする」「大事にされたいから惨めな気分になった」。これらのセリフは、怒りに達する前の感情を表しています。丁寧な言語化は、非暴力を実現しうる重要な一手だと考えます。

 


 このリフレクションのさらなる利点は、やり方が習慣化すると相手(子ども)のことも同様に"見立て"るようになることです。「ああ、あの子は受け入れられる必要があるから、イラついてんのかな?それなら、気持ち分からなくもないなあ」などと子どもの感情に説明がつくと、怒りというのは大して湧いてこないものです。むしろ、「大丈夫だよ」と抱きしめる余裕さえ生まれます。

 


 そしてなによりも、子ども達に「暴力的じゃない表現方法があるんだよ」と大人が具体的に示してゆくことが大事です。僕は、この暴力性に自ら折り合いをつけてゆくこと、その挑戦を諦めない事が、人が生まれながらに担う課題のような気がしています。・・・・なんて書いておきながら、頭の中では「このクソガキ!」なんて罵倒しちゃう事もあるのですが。

 


「子どもに怒ることあるの?」にはこんなふうに答えれるけど、「もっと怒らなきゃダメですよ」とか、逆に「怒っちゃダメなんですか?」なんて聞くと、上記したような実態を知って欲しいのでムカついてしまいます(怒)。