遊びと子どもについて語り尽くす

地域に子どもの遊び場を作るプレイリーダーという仕事をしています。

「逃げ癖がつく」?

 子どもが何かから逃げようとする局面に、その子の将来を案じてこんなふうに思ってしまう人もいると思います。

 逃避を繰り返すことによって恐怖感が増してしまう、というのはあり得る事だとは思いますが、少なくともそれは、大人が子どもに押し付けて良い視点ではないと私は思います。「子どもが頑張る道を選ぶには、逃げる道もしっかり認められた上で、どちらでも選べる必要がある」と考えているからです。なので、このような言葉を聞くと「その子の事をもっと見て欲しいんだけどなあ」とガッカリします。

 


徐々に不登校になっていったある男の子は、その当時周囲の大人達から連日「甘えている」「不登校になる理由がない」「そんな事じゃ世の中に出てやっていけない」などといった否定的な言葉を投げかけられていたそうで、見るからにしょんぼりしていました。ある日、彼に「今1番何がしたい?」と尋ねると、しばらく黙って考えたあとに、涙ながらこう呟きました。「もっと遊びたい。」。よく、答えてくれたと思います。私はこの言葉を「もっと自分の人生を生きたい」と同じくらい、重く受け止めました。

 


幸運にもその後、彼を尊重しようとする大人が集い、思う存分遊ぶ事が認められた彼は、見る見るうちに元気を取り戻していきました。そしていつしか彼なりの冒険の道を選んでいったのです。

 


この"彼なりの冒険"が具体的に何であったかは、あまら重要だと思わないので特に触れません。

 


とにかくこの時私が思い知ったのは、「子どもが自ら一歩踏み出すために必要なのは、大人の脅しや批判、厳しさなどではなく、心からの安心だ」という事です。

 


しかしながら、例えば引きこもり問題についてこのように主張すると、「いつまでも引きこもってるような子どもが、大人の指導なしに沼から脱せるわけがない」などと反論されると思います。確かに、引きこもる子どもを力づくで引きずり出して、うまく社会復帰に結びつけた、という事例をテレビで見た事はあります。

 


ただ、私自身が重度の引きこもりであった(トイレにも行けなくて、オシッコをペットボトルに何本も溜め込むほどの)経験から、実感を込めて「引きこもるだけでは安心していない」と言いたいのです。実際、当時(人に脅されたり、諭されたりして得るような)不安や恐怖を動機に、"部屋から出る事"それ自体は達成する事ができました。しかしその体験は、後の受動的な生き様や、消せない虚無感を決定づけてしまいます。そんなネガティブな生き方だから、「共に安心を作ってくれる人と運良く出会えて・・・」なんて事もなく、見せかけの社会復帰は何度も元の木阿弥となり、私は少しずつ追い詰められる事になったのです。

 


話は戻りますが、幼く不安定な心にとって、安心というのは"大切な存在と何気ない日々を大事に過ごせる"ということではないでしょうか。子どもが「ふー、落ち着いた。ちょっと一歩踏み出してみようかな」という気持ちになれるのは、それからだと思うのです。

 


そういうわけで、冒険遊び場で働くプレイリーダーとしての私の本懐は、子どもが安心する場所を作り、子どもと共に過ごす今を大事にする、という事です。その日々の積み重ねの先に、それぞれが冒険を描くのだ、と信じて。