遊びと子どもについて語り尽くす

地域に子どもの遊び場を作るプレイリーダーという仕事をしています。

"生きようとする力"

❶"遊び"と"生きようとする力"

 


 僕は10代後半から20代にかけて、トイレに行くのも不安で、オシッコをペットボトルに溜め込んでしまうほどの引きこもりでした。寝るか夢想するか以外は、過食嘔吐を繰り返す毎日。いつのまにか、チラシの裏に絵を描き始めていました。他人から見てキモかろうが下手かろうが全く気にする事なく、「理想の恋人(綾波レイっぽい誰か)」とか、「ただの青空」とか、「手」「変形した顔」だとかを鉛筆とかクレヨンで無我夢中に描きまくったものです。それが一歩も外に出ることができない自分を解放する、生きようとした結果。つまり遊びだったのでしょう。18の頃です。

 


 しかし、それから3年も過ぎた頃には、絵を描く純粋な喜びは消え失せ、描くたびに神経をすり減らし、日を追うごとに漠然とした不安を募らせていました。

 


 絵を描き続けていれば、それなりに画力はつくものですが、技術と知識、そして他人からの評価も上がっているにも関わらず「不安を募らせた」とは、どういうことでしょうか。

 


 重度の引きこもりで一年以上他人と声を交わす事さえできなかったくせに、僕は当時、親の手前「美大に進学する」なんて言い出しました。それが、自分が人として認められる必須条件だと思い込んでたんですね。そうして入った予備校で、目に見えて上昇する順位と共に、人に褒められる快感を覚えます。イジメや不登校を経て、それまでずっと自己を否定しながら生きてきた青年が、生きる希望をそこに見出して縋りついてしまうのは、無理からぬ事だったな、と振り返ります。

 

 

 

❷褒めて伸ばすか、共感されて伸びるか。

 

 ところで、子ども関係の事業に出入りしていると、「褒めて伸ばそう」なんて言葉を耳にすることがあります。それこそが子どもの自信になるのだ、と多くの人が信じているようです。褒めて伸ばすとは、つまり「大人がこどもをおだてること」と僕は解釈します。

 


 たしかに、子どもが何か"好きな事"を始めた時、それを誰かに共感してもらえたならば、その子は"好きな事"も"それをしている自分"も、益々好きになることでしょう。

 


 しかし、「共感する事」と「おだてる事」はずいぶん意味合いが違うように思います。何故なら、前者はありのままの子どもと共に生きることが目的になりうるけど、後者は「子どもにもっとこうなって欲しい」という明確な意図があるからです。

 

 

 

❸自信と優越感

 


 褒められる事も、良い成績を納めることも、生きていればままある事です。そうなれば誰だってある程度嬉しいでしょう。時には褒められたくて頑張っちゃうのもうなづけます。

 僕が問題視しているのは、「他人から褒められる事を、生きる目的にしてしまうこと」です。この生き方は「自信には他人からの賞賛という根拠が必要」という考え方に繋がります。そうなるともう「自分を信じている」とは言い難く、とても自信とは呼べません。それは優越感です。

 そして優越感の根拠たる賞賛が得られなかった時には、「がらんどうの自分」が顕になります。いわゆる自己不在です。優越感を育んでいる人は、同時に虚無感をも育んでいるという事です。

 


 自信と優越感、一度きりの人生を生きるにあたってどちらが豊かかは、自明だと思います。

 

 

 

❹自我の芽

 


 僕は、誰もが毎日を通して、自らの内に自我の芽を育てているのだ、と想い馳せます。僕が絵を描き始めたのは、萎れかけていたその芽が微かな光を見つけて、ようやく蔦を伸ばそうとした現れだったのではないでしょうか。

 


「子どもを褒めて伸ばそう」とか「自分は褒められて伸びるタイプ」とか聞くと、僕は"人が備えている生きようとする力"を尊重したいので、心配になってしまうのです。