遊びと子どもについて語り尽くす

地域に子どもの遊び場を作るプレイリーダーという仕事をしています。

「トラブル対応も"遊び"になる」

❶この対応が一体何に貢献しているか?

 

 子どものトラブル対応だって、ものによっては結構ハードである。しかし、自分のその対応が何に貢献しているのかハッキリしていれば、これも"遊び"にすることができる。決して簡単ではないが、マジだ。※もちろんこの考え方は、子どものトラブルに限らない。

 

 では、「何に貢献しているのかハッキリしている」とはどういう状態をいうのか。

 

 

❷普段の自分の、言動の目的

 


 皆さんには目的があるだろうか?矜持とか、拘りとか、いわばあなたの人生を豊かにするために目指している"的(まと)"があるだろうか?僕の場合のそれは、僕が生きてゆく上で必要な事(ニーズ)のうち、より意図的に選んだものだ。例えば僕のニーズの中では、承認欲求は特に強いものだが、あえてそれを動機に行動しないように気をつけている。※気をつけてても、認められたくてやっちまう事はめちゃくちゃ多い。

それで出来る事なら、認められることより"認めること"を選ぶ。つまり自分の目的とは、"人生を豊かにするために目指すもの"と言っても過言ではない。

 

 じゃあ、僕が自分の人生を豊かにするために目指しているものとは、一体何なのか。もう少し具体的にいうと、まず始めに「信頼」と「安心」だ。鬱でパーソナリティ障がいを患ってきた僕にとっては、殊更これが必要で、人一倍欠けているものだ。

 そして、これを得るための戦略として、僕は「共感」と「尊重」を最も重んじている。という事は、信頼を得るために自分を抑圧して相手にひたすら迎合するとか、馬鹿みたいに可愛がるとか、そういう選択をしないという事だ。何故なら、共感と尊重そのものを重んじるという事は、「相手と同じくらい、自分自身にも共感と尊重を向ける」という事になるのだから。

 

 そうして培った信頼や安心が土台にあれば、次はそのまま人生の豊かさのために「挑戦」「貢献」を求める。言い換えれば、「冒険」だ。

 

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 このように、自分が普段から何をどう重んじているか言語化できていると、問題となる何事に対しても、相手の特性やその時の状況に応じて、具体的な方策が浮き出てくるはずだ。

 


❸目的に準じた指標

 


「状況に応じて」と言ったが、今回考える状況は「トラブル対応」である。これに応じた方策を思い浮かべると、僕の場合は次のようになる。

 

 

① 最低限の安全と安心を確保する。

(時に場の設定であったり、立ち位置であったり、手順やタイミングであったりする)

 

②相手の感情、その元となるニーズを見立て、共感(エンパシー)する事で、自分が相手を十分受け入れる。

(自分の受け皿を作る)

 

③相手の感情、その元となるニーズを確認し、尊重を示す事で、相手に十分自覚してもらう。

(相手の受け皿をつくる。作ってもらう)

 

④手段を尽くしてそれらを表現し、当事者間に行き渡らせる事で、相互理解の輪を作る。

(皿から皿へ、料理をお裾分けするように)

 


ざっくりとだが、①〜④はいわば前述の的(すなわち目的地)に到達するまでに、ところどころに立てておく指標である。これがないと、的を見失いやすい。

 


この事を事例と共に解説する。

 

 例えば、喧嘩相手を脅威と考えてパニックになった子どもを、そっと抱きしめて「大丈夫」と言うにとどめた時。これは彼の"安心"を達成するために、その時の僕にはベストの方策だったと思う。この時いきなり指標④の「相互理解」は選ばない。「彼の発達はそんな段階にない」と判断しているからだ。方策を選ぶという事は、現実検討する、という事でもある。

 

 そのほか、どうしてもルールを理解できない子どもに、「ここでは、順番を待つんだよ。そうすると楽しく遊べるんだよ」とシンプルに声をかけつつ、順番待ちのための一時停止線を引いたりしたこともある。これも選択した行動だ。善意による行動でも、もしかしたら子どもにとっては、自ら考える機会を奪われたことになるかもしれない。だから、選択に伴う責任は決して軽くない。しかしあえてこれを選ぶ。「自分でこれを選んでいる」と胸を張って言える事が、"遊び"の肝だ。

 

 また、指標①「最低限の安心と安全の確保」のために、子ども同士のトラブルの種そのものを僕が奪ったこともある。ある時は墜落も危ぶまれる高所で喧嘩を始めた子どもを前に、(彼らではなく)空に向かって「嫌だあ!」と叫んで、喧嘩の雰囲気を一旦吹き飛ばした。または、どうにも手があがりがちな子ども同士の取り合う物を、僕が持ちだして逃げちゃった、なんて事もある。このやり方は、マーシャル・ローゼンバーグ が「力の防御的行使」と呼んでいた。僕は、「子どもの自由を尊重したい気持ちもあるが、自分のこの目的は蔑ろにしない!」と考えてこの一見強気な行動を選択している。

 

 ④の相互理解にもう一つ付け加えると、子どもの感情を受け止めたり、その翻訳をしたりするだけでなく、大人が自分の感情を子ども相手に率直に伝える事は、お互いの人生を豊かにするためには欠かせない貢献だ、と言いたい。できることならその感情が湧き上がっている時に伝えたいものだが、子ども同士のトラブル介入時には、そうもいかない事が多い。大人側の心の準備ができていても、子ども側の心の準備ができていなければ、メッセージは伝わらないどころか、信頼を失う事になる。

 

 

❹遊びになるか、責務になるか

 

 トラブルの対応に「いつでもこうすれば良い」という簡単便利な答えはない。一発逆転のラッキーアイテムもない。実際にはただ日常で積み上げているスキルと意識、そしてその子どもとの関係性がものを言う。ただ、こうして書いてきたように、自分がそれをする事で何に貢献しているのかハッキリしていれば、それは自分を解放する"遊び"になる。そうでなければ、それは自分を縮こませる"義務"になる。

 


❺あとがき

 

僕は15年前から精神疾患を患っているので、こんなふうに考えなければうまいことやってこれなかったのかもしれない。逆に言えば、こんなふうに考える事ができれば、例え精神疾患があっても10年以上、心折れる事なく冒険できるわけだ。